本記事は【歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO】をシーズン毎にまとめ、紹介している記事になります。
この記事を読んで得られるメリットは、下記の通り
✔だれにオススメの記事か?
- 普段はYouTubeやpodcastで楽しんでいるが、理解したくて何度もリピート再生した経験のある方
- シーズンが進むにつれて出来事が繋がってきたので、簡単に振り返りたい方
- これからコテンラジオデビューするか迷っているのでまずは試したい方
上記のような悩みを解決できます。
✔歴史を学ぶ意義
結論は【歴史の学びを通して人生を豊かにできる】
具体的には、下記の通り
「私たち現代人の抱える悩み」
「世の中の流れ」
上記を読み解いていく1つのきっかけになるはず。
歴史を学ぶ意義(理由)やそこから何を得られるのか、記事にまとめました。上記で示したことをより詳細に知りたい方は合わせてどうぞ
僕たちが歴史を学ぶ本当の意味と得られること
✔歴史が苦手でも問題無しです
歴史を知り学ぶ”意義”は上記の通り。
とはいえ、歴史が苦手だったり難しいイメージを持っている方もいるはず。
過去の僕も歴史を学ぶ意味や意義を見いだせず。試験の為だけのいわゆる一時的な暗記科目として学んでいました。
✔コテンラジオを紹介する理由
歴史が好きで興味がある人はもちろんですが、
歴史が苦手な人にこそ、おすすめしたいと思っています。
おすすめ理由は、下記の通り3つ
- 歴史の学びを通して人生を豊かにできる
- 歴史弱者でも分かり安く、時代背景から順に理解できるので予備知識を必要としない
- 体系的にわかりやすくまとまっている
上記の通り、ぜひ歴史弱者を自称する人にこそおすすめできるし、視聴して貰いたいと思っています。
もし、視聴して耳だけでは理解が難しかった人は、本記事でテキスト形式にまとめているので理解の補助に活用すれば問題無しです。
【今回紹介しているのはこちら】本編YouTubeで公開しています。
動画で確認したい方はこちらをどうぞ
右上の方がリストになっているのでエピソード#の毎の再生も可能です。
シーズン毎にテキストでまとめているので気になる方はコチラをどうぞ
♦シーズン1 吉田松陰♦
♦シーズン2 スパルタ♦
♦シーズン3 コミュニケーション史♦
♦シーズン4 天皇♦
♦シーズン5 キングダムSP 秦の始皇帝♦
♦シーズン6 諸葛孔明♦
♦シーズン7 世界三大宗教♦
♦シーズン8 ヒトラー♦
♦シーズン9 フランス革命♦
♦シーズン10 ガンディー♦
♦シーズン11 アレクサンドロス大王♦
♦シーズン12 お金♦
♦シーズン14 高杉晋作♦
おすすめの映画作品の紹介記事があります。気になる方は以下からどうぞ
♦【コテンラジオ好きへ】おすすめの映画を紹介♦
今回のテーマは、西遊記のお坊さん「三蔵法師・玄奘」です。
ちなみに、三蔵法師とは固有名詞ではなく”称号”のようなモノ。玄奘が名前です。(今回は玄奘さんについて見ていきます)
シーズン1吉田松陰に始まり6人目となる、人物にフォーカスしたテーマになります。
彼の人生はとても簡単です。
お坊さんになり、地球1周半分歩き回り、インドまで旅をして、お経を持ち帰り翻訳した。それだけです。
ヤバ偉人ではあると思いますが、戦争に強い英雄でも無ければ、皇帝として国を築いたわけでもありません。
ではなぜ、玄奘の名が残され後世まで語り継がれているのかといえば、彼が常人ではなし得ないような偉業を成し遂げたからです。
人生の全てを己の知識欲、探究心に捧げ尽くした玄奘の一生から「知識の価値」「学びとは何か」を考えさせられます。
また「ビジネス、人付き合い、生きるとは」様々な側面から学びを得る事ができるのではないでしょうか。
1. #79 三蔵法師玄奘ー終わりなき知的探求の旅(約22分)
2. #80 信じる者は救われる!?ー仏教と中国のディープなカンケイ♡(約20分)
3. #81 空の思想?え。なにそれー三蔵法師の愛した唯識論(約19分)
4. #82 三蔵法師,旅立ち前夜ーイケメン過ぎて裏口入門!?(約17分)
5. #83 井の中の玄奘、大海を知る。真理を求めてインドへGO!(約16分)
6. #84 本当は1人ぼっち?三蔵法師のリアル西遊記(約25分)
7. #85 玄奘ウルルン西遊記ー三蔵法師が遊牧民の王と出会った(約21分)
8. #86 三蔵法師・玄奘ー経典を乗せた船がまさかの転覆!?波瀾万丈の西遊記最終章(約20分)
9. #87 人生と旅と勉強だ!三蔵法師に学ぶ人生哲学(約23分)
10. 総括
11. 参考文献
12. 最期に
#79 三蔵法師玄奘ー終わりなき知的探求の旅(約22分)
- 西遊記に出てくる三蔵法師は実在する人物であり、本当に経典を求めて旅をしたお坊さんがいた。
- 実際の旅は、法律違反の密出国による1人旅であり、砂漠や氷山を徒歩で越えて行く辛く厳しいものだった。
- 玄奘は13歳で出家し、27歳で旅に出る。17年後に帰国して亡くなるまでの20年間では経典の翻訳を続けた
- 当時、お経を取って帰るという事の本質的な意味がわかると、玄奘がなぜ歴史に名を残しているかが理解できるはず
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まずは概要についてのエピソード#になります。
「三蔵法師玄奘」をテーマにした理由
✔西遊記は実話ベースだった
三蔵法師については西遊記で知っている人が多いのではないだろうか。
悟空(サル)たちと共に旅をする三蔵法師(お坊さん)の事ですが、実は作り話しではなく。
中国の随と唐の時代に、本当にガンダーラへ経典を求めて旅をしたお坊さんがいたわけです。
その人の名を「玄奘」と言う。
ちなみに、「三蔵法師」とは固有名詞ではなく称号に近いモノなので何人も居ます。
(三蔵とは3種の経典という意味があり、三蔵法師とはそれを極めた人という意味がある)
つまり、玄奘以外にも三蔵法師はたくさんいるけれど玄翁が凄すぎて、三蔵法師といえば玄奘だよねとなっているわけです。
✔なぜ、命をかけて経典を取りに行っているの?
【結論】知識を得るための旅です。
簡単にまとめると、お坊さん1人で凄まじい旅をしてお経を取って帰るだけなんです。
しかし、冷静に考えてみて不思議です。
自分たちが分からない事を知るために1人で砂漠や氷山を越えて地球1周半分も歩きますか?
これをほじくり返してみたら面白い発見があるのではないだろうかというのがテーマの理由です。
玄奘の人生(旅)について
西遊記のイメージでは4人で珍道中ですが、実際にはお坊さん(玄奘)1人での過酷な旅でした。
具体的には、下記の通り
- 吉田松陰のような感じで法を犯して出国しており、逃げている状態(シーズン1参照)
- 寒暖差100度の砂漠や氷河を越えて行く
- 途中で盗賊や山賊に襲われている(史実で2回、伝説で7回)
- インドに辿り着き、大学ではトップクラスに入り勉強しまくる
- お経を大量に持ち帰った後、20年間ずっと翻訳し続ける
上記がストイックで過酷な玄奘の旅であり人生(一生)になります。
✔冒険家(フィジカル)×哲学者(メンタル)
玄奘は仏教を学び探求している、基本的には哲学者です。
なので、インドへ行き哲学的な探求をしています。
それと同時に、彼は砂漠や氷山を越える旅をしており、冒険者の性質も合わせ持っている。
つまり、「物凄い頭脳と半端ない肉体」を持つ凄すぎる人物だったということ。
玄奘の偉業(背景)について
✔玄奘の偉業
玄奘が歴史に名を残すことになった「偉業」は、下記の通り
- 持ち帰った経典の「翻訳」
- 「大唐西域記」の作成
「翻訳する」というのが彼が行った一大事業です。
例えば「般若心境」。これらは玄奘が訳しています。
玄奘以前にも訳してあるモノはあるが、彼がブラッシュアップしており、今の僕たちが見ている1番普及しているのが玄奘バージョンです。
また「大唐西域記」について、
これは、旅をした先で立ち寄った国についてどの様な国で、食生活はどんなで、ということを記したモノ。
いわゆる地理史のようなモノを作っており、今も記録に残しています。
当時の生活を記録として残してくれているという所ですごく価値のあることをしてくれた。
✔玄奘が英雄視される理由
玄奘が歴史に名を残し、西遊記という文学作品が作られ英雄として扱われている。
しかし、冷静に考えると不思議である。
アレクサンドロスなどが英雄視されるのは分かり安い。地位もあったし戦争も強かった。(シーズン11参照)
しかし、三蔵法師玄奘はどうだったか。
Qお経を持ち帰っただけでなんで?
上記の疑問を理解するには、
つまり、「当時の中国にとってお経をとって帰るということが民衆にとってどういうことだったのか」これを知れば玄奘の絵業がわかるということ。
✔お経を持って帰る本質的な意味
- 民衆にとってお経を取って帰ることは救いだった
- 仏教を民衆に伝えていく架け橋として玄奘が機能した
具体的には、下記の遠り
当時の中国は戦乱続きで混乱した社会の中で、民衆に救いが無かった。
救いを求める民衆に対して仏教が普及していたけれどインテリのモノだった。
つまり「仏教は哲学なので基本的にインテリ層にしか普及していない」
玄奘がそれをどれだけ意識していたかはわからないが、上記を民衆に伝えていこうとした時
「原点を中国(母国語)で訳しているモノが少ない」というネック(課題意識)があった。
つまり、玄奘以前は外国人が中国語に訳しているわけです。
仏教は哲学なので、正確に訳さなければ伝わらない。(間違って伝わってしまう可能性がある)
ここで玄奘が哲学として中国語に訳したことで、民衆に広がった。
✔勉強大好き玄奘さん
彼が名を残すに至る背景としては、上記で述べた通り。
しかし、実際には個人的な理由から旅は始まっています。
「民衆を救いたい」≦「僕が真理を知りたい」
後のエピソード#を見て行くと分かるが、玄奘は天才です。
普通の凡人レベルではないので「常に自分が勉強している環境に満足していない」
なので彼は命をかけてでも勉強したくなってしまい旅に出るわけです。
#80 信じる者は救われる!?ー仏教と中国のディープなカンケイ♡(約20分)
- 中国では、随の統一まで「300年間の戦乱が続き」「異民族の流入が続く」めちゃくちゃな時代の中国で仏教は普及している
- 仏教が普及した背景には「多民族国家の統治」という国家の政治的な課題があり、対策として「仏教という共通の価値基盤の投入」の意味合いがあった
- お釈迦様が亡くなってから100年後、仏教はその教義の解釈の違いから分裂する
- 分裂した後「民衆を救うための仏教(本来の仏教の姿)に立ち返ろう」という動きから、大乗仏教が興り、日本や中国に広がる。(※玄奘はこの大乗仏教の僧侶)
- 「大衆の為の仏教」という流れとは別に、国家にとっての仏教とは「国を守る」という安全保証政策だった。
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まずは時代背景(前提知識)から、玄奘が活躍した中国についてのエピソード#になります。
当時の時代背景の中で仏教がどういう役割を担っていたのかというのが理解できます。
どの辺りの時代の人?
玄奘がどの時代の人なのかというと、下記の通り
- 世界で古代が終わりを迎えつつあり、これから中世に突入するという境目辺りの時代の人。
- 西暦で言うと600年ぐらい。
日本では聖徳太子などが活躍している時代で、小野妹子が日本から随へ行っている。(この時、玄奘は大体10歳) - インドよりさらに西ではムハンマドがいるような時代です(シーズン7参照)
この時代の特徴
当時の中国における仏教がどうのような状況かというと
✔仏教の広がり
仏教は後漢王朝の時代(西暦100年頃)にインドから中国へ伝わる。
そのため、当時の中国の国教のメインは儒教だった。
しかし、道教と呼ばれる老子からの流れで仏教が民間宗教として少しずつ浸透していく。
上記のように、少しずつ中国社会に仏教が浸透している中で
随という国が国を統一し、そこで仏教を保護して栄えていく。
つまり、国として仏教を推していきますという流れで生まれているわけです。
✔300年続く戦乱の時代
上記のように、仏教は中国で広まったと言われている。
この時代の中国の特徴は、次の通り
- 「300年間続く戦乱の時代」
- 「漢民族メインだった中国の土地に、異民族の大陸進出が続いた」
良く言えば、たくさんの文化の多様性が増えたという見方も出来るが、めちゃくちゃな時代だった。
具体的には、下記の通り、
漢の時代が終わって⇒三国志が来て三国の時代⇒その後に魏が中国を統一して⇒清という国に変る。⇒そして中国では300年間、戦乱の時代を迎える。
つまり、今の中東のような(不安定な状態)が300年間続くわけです。
(※江戸時代が1700年位なので、そこから現代までずっと戦争し続けているイメージです)
色々な国が分裂して南北に別れ、ちょうどその漢民族が中国の南の方に追いやられてしまい。
北の方にたくさんの異民族(彼らにとっての遊牧民や異民族)が入ってくる。
これらの状況が、仏教が定着していく土壌になっているわけです。
✔国家統治の政治的な課題
最終敵には随という国が統一する(随の後に唐)のだけれど、漢王朝と唐の王朝では自分の国である中国を統一するための国家的な課題が全然違う。
具体的には、下記の通り
- 【漢王朝】漢民族をちゃんとまとめれば良い
- 【隋や唐】異民族を含めて国をまとめないといけないため、難易度が高い
つまり、色々な多様性がありお互いの取引コストが高い中で共通の価値言語として選んだのが仏教だったわけです。
国を統治する時の共通言語や価値観のシステムをどこに置くかというのは歴史上とても大事。
例えば日本の場合、明治維新がなぜ成功したかというと天皇という共通の価値システムを見つけて国民がまとまったからです。
仏教の歴史
共通の価値システムとしてなぜ仏教が選ばれたのかについてみていきます。
✔教義の中に共有できる部分があった
仏教はインドから生まれています。
もともとインドでは最初「バラモン教」というのがベースとしてあり、バラモン教の流れから「ヒンズー教、仏教、ジャイナ教」などが出て来ている。
- 教義の中に共有する部分がたくさんあった
- 当時の唐の時代の領域と、仏教の領域(仏教圏)のエリアが重なっていた
つまり、遊牧民たちも何か大事にしていることや信じていた部分があるので、仏教という共通の価値システムを使う事で統治コストが低かった。
そして、他の宗教を信じている人たちや異民族も皆が仏教であれば何となく理解できる共通文化が既にあったわけです。
また、上記とは別にもう1つ。
300年続く戦乱の中で、民衆が「救いを求めた」という宗教的なニーズ(現世が辛い)があった。
✔原子仏教の分裂
仏教の歴史については知らない方が多いと思います。
実は、お釈迦様がが亡くなった後どうなって行くのかということを知っておくと全然世界が違って見えますので確認しておきましょう。
(※以下の図解を参考にどうぞ)
- お釈迦様が仏教を唱えている。
- 弟子をたくさん持っていたが、人間なので当然亡くなる。
- お釈迦様が唱えた1番オリジナルのモノを「原始仏教」と呼ぶ。
まず始めに、お釈迦様が亡くなって100年ほどが経った後に弟子たちが分裂します。
要は、お釈迦様が唱えた色々な教義について「これは違う」「自分はこう思う思わない」など
その教義に対する解釈で議論して分裂するわけです。(※上座部仏教・大衆部)
議論のポイントとなっった協議は色々あるけれど、その内の1つが「信者からお金を貰っても良いか否か」
- もともと仏陀(お釈迦様)が修行していた時にはお金を絶対に貰っていなかった。
- こうしたお金に関する記述は無い。つまりお金を貰って良いとは言われていない。しかしダメとも言っていない。
- 信者から貰うお金は「浄財」である。浄財は寄付であり食べ物などのお供えと同様でありお金を貰っても問題無いのではないか。
仏陀がお金を貰っていなかったからダメ!お金は貰ってはいけない。
仏教を広げるための資金になるのだから、お金を貰っても良い。
上記のように、対峙し別れた後
さらに流派(部派)が別れる。(10~20位まで分裂)
この時代のことを部派仏教と呼ぶ。
✔大乗仏教
上記の通り、1つの教義に対して流派が別れて本気の激しい議論をする。
この時にある1派が出てくる。それが、ヨガをやっていた部派(集団)。
(※現代では、ヨガ=健康のイメージで行っている人が多いだろう。しかし元々は仏教用語で心を静かに見つめてそれを掘り下げていくという自分を悟りへ至らせるための修行でした。)
お前たち(部派仏教たち)はダメありえない。仏教はもともとお釈迦様は大衆を救うために唱えられた。なのにエリートの学問になってしまっている。
私たちがここですごく難し議論をしていても、どんどん大衆から離れていっているじゃないか。
これって仏教の本質から外れているよね。
上記の通り「仏教の本質から外れている」という問題意識が出て来て、
ここからヨガの一派(集団)から出て来たのが「大乗仏教」(※歴史の教科書などにも出てくる)
つまり、彼らは「お釈迦様が唱えた本来の仏教の姿。民衆を救うための仏教に立ち返ろうよ」ということを唱えたわけです。
こうした「大衆のための仏教」という流れの中で色々な改革が行われる。
具体的には、下記の通り。
- 色々な仏を作り出す
- 菩薩という概念を持ちだし、修行のハードルを下げた
もともと原始仏教や部派仏教の中では仏とはお釈迦様1人だけだった。
しかし、今の日本や中国で普及している大乗仏教では阿弥陀如来など色々な種類の仏がいる。
要は個人が悟れば良い。
しかし、上記のままではハードルが高い。(苦行したり何年も瞑想にふけったりしなくてはいけない。)
【結論】菩薩という概念を持ちだし、修行のハードルを下げた
具体的には、下記の通り
色々な説や教えがあるが「皆が悟りを開いて仏になる必要はない」
つまり「仏になる為の修行をしていれば救われるということ」
(※悟りに至っていない修行している人を「菩薩」と呼び、この概念を持ちだした)
上記の通り、改革によりハードルを下げ大衆的にしたのが「大乗仏教」です。
これにより一気に大乗仏教が日本や中国の民衆に広がった1つの要因となる。
✔唯識論
後のエピソード#で解説するが
大乗仏教(当時の仏教思想の中では1番最先端)のさらに最先端である唯識の思想というのを玄奘がインドから持ってきた。
これを唯識論と呼び、玄奘が旅をした1番の目的となる。
これでは正確ではない。分からないので、「実際の唯識論ってどうなってるのか」ということで旅に出るわけです。
要は、上記のまままでは正しく広まらないし、自分達も研究できないからということで旅にでたわけです。
✔国にとっての仏教
民衆として「大衆のための仏教」という大きな流れができていて、玄奘はその流れの中にいるというのは、既に述べている上記の通り。
じゃあ中国(国)にとっての仏教は何だのかというと、下記の通り。
【結論】仏教=国家事業でした。
なので、個人が適当に「お坊さんに、おれはなる!」という風にはなれません。
つまり、お坊さん=公務員です。
お坊さんになるには皇帝の許可が必要なんです(今でいう公務員試験を受ける必要があるイメージ)
日本に仏教が入ってきた時もそうでした。
民間宗教としてよりは国の事業(国の政策)として入って来ており、護国仏教は国を守るための仏教であり、完全保証政策だったわけです。
ちなみに護国仏教が何かというと、
当時(昔)は病気や国の乱れといった災いの原因として「鬼神」が考えられていた。
要は、あまりよくない不吉なモノ(鬼神)の仕業だという風に考えられていた部分が凄く多く。
これらを避けるために仏教を取り入れて国を守ろうとしていたというわけです。
そしてもう1つ既に述べているが「統治のため」
つまり、色々な異民族がいて多民族国家である当時の随や唐を統治するために「仏教という共通の価値基盤」を投入したわけです。
以上をまとめると、下記の通りです。
- 国を守るため
- 統治のため
つまり、玄奘は公務員的な立ち位置だった。(※13歳頃から既に公務員になる)
そして、彼が仏教の事業をやるということは国の政策に密接に関連していたわけです。
- 今のお坊さんの様に人に説法をするという感じではない。
- 国家公務員として国の政策のために旅に出て研究している。
- 技術的な研究がメインで学者に近い。(今で言う国立大学の教授のイメージに近い)
- 寒暖差100度を超える砂漠や氷山を越える旅をする冒険家でもあった
以上が当時の仏教の立ち位置(役割)である。
現代とは全く違い、当時の生活の中に無くてはならないモノとしてインストールされているわけです。
国の政策として必要であると共に、大乗仏教という当時の仏教世界で最先端に立っている玄奘。
なので、彼の旅には「自分は何かこの最先端の大乗仏教の唯識論という最先端を極めて何かしたい」という自負があったのかもしれません。
#81 空の思想?え。なにそれー三蔵法師の愛した唯識論(約19分)
- 今と違って当時の仏教は国家事業だった。玄奘を含めたお坊さん(僧侶)の立ち位置は国家公務員や国立大学の教授のようなモノであり研究職の側面を持つ
- 玄奘の旅の動機は当時の最先端だった大乗仏教の根幹を成す「唯識の思想」への知的探究心であり、これは量子論と類似性があるような壮大で綿密なロジックの世界
- 唯識思想は『般若心境』などで解かれている「空の思想」をアップデートしたようなモノ。全ての物質や現象には固有の実態が存在しておらず、実態があるように見えるのは私たち自身の認識(心)でしかないという考え方。
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当時の時代背景の中で仏教が担ってきた役割について解説する中で出てきた言葉「唯識論」についてのエピソード#になります。
(※相当に難解な哲学であり悟りの話、20の動画などで語れる内容ではないため【概略】になります)
無我という概念
✔全ては認識(概念)でしかない
簡単にまとめると、以下の通り
- もともと仏陀が言ったことに「無我」という概念があり、自分は存在しないという考え方
- つまり、自分のことを自分と認識しているけれどそれは概念でしかなくて、存在はしていないという考え方
おそらく上記だけでは意味不明に思われたのではないだろうか
例えば、下記の取り。
✔例えば「ピラミッド」ってただの石だよね
皆さんは「ピラミッド」を知っていますよね?
僕たちがピラミッドと認識しているけれど、冷静に考えると「1つ1つは石の集り」ですよね。
つまり、「石はあるけれど、ピラミッドは無い」という考え方をしているわけです。
しかし、その構成要素を1つ1つ細かく分解して見ていくと、それによって構成されているわけであり、
概念でしかない。というお話。
上記の考え方は、人間にも当てはまります。
僕たちは人間(身体)1つの個体として認識しているけれど、これらは細胞によって構成されている。
しかしQでは、なぜ2つで1組の個体として認識ではダメなのか?
この疑問に答えようした時に「概念の問題」なので証明できなくなるわけです。
例えば、下記の通り。
⇒操作できるかどうかは、自分が自分ではないとは関係ない。なぜなら身体を動かせない人がいるから。
⇒車を運転している時に「車ごと自分か?」と聞かれても、そうじゃ無いですよね。
上記に対して、ピラミッドの例に戻って考えて貰いたい。
- 車と自分をセットで1つの個体と認識しても、別におかしなことではないはず
- なせならピラミッドは、色々なモノを含めてピラミッドと呼んでいるから
- 結果、僕たちも1人間では無くて、人間+車で何か1つの個体であると言って認識しても本当はおかしくない
- つまり勝手に人間で1つの個体だと思って認識しているけれど、それはあなたが思っている(認識)だけであってそんなモノは存在しないと言っているわけです
- 線引きは全て人間の主観的なモノで勝手にしているだけである。
よく考えたら人間は、60億個の細胞の塊に過ぎない。
何をもってそれを自分としてまとめているのか。
その、存在しないはずの自分という単位で物事を考えて「何かをしたい、何かが欲しい、自分はこれが満たされていない、満たされている」そういうことを考えるから苦しみが生じるんです。
これが仏陀が1番最初に言ったこと。
空の思想
上記で述べてる「無我の思想」が発展したのが「空の思想」
玄奘が訳した般若心境で言われる「色即是空」です。
この解釈としては、「僕たちが認識しているモノは固定された一定のモノというのは実は無い」
つまり、ピラミッドの例でも述べたが「徹底的に分解していくとそのものではなくなる」ということ。
- 人間を分解していくと細胞の塊
- ピラミッドも分解すると石の塊
- パソコンだって分解すれば部品の集まり
これらをさらに分解すると原子になる
何をどの段階でもってそれを人間、ピラミッド、パソコンとして認識するのかと突き詰めると結局何も無い。
僕たちが見ている全てのモノは色々な因縁、直接的な要因や間接的な要因によって、たまたま1つの形に見えるモノに過ぎないというのが色即是空。
(※「因縁」とは、仏教の中で色々な繋がりや関係のことを言う)
「色は見えているとおぼしきモノ、空とは実はないモノ」ということ。
✔仏陀の悟り
- 空の思想の中では、僕たちが観測している目の前の人たちについて自分の感覚では確かに受け取っている。しかし、実態として存在していrかどうかは証明できないという考え方。
- あるかもしれないけれど、別に無くても全然おかしなことではないという考え方。
触れるけど触ったという感覚は自分の感覚である、
だから本当は無いけれど、触っているとそこに有ると思っているだけかもしれない。
突き詰めてこじらせるとこうなる。
つまり、理論的には証明ができないのでいるかいないかは分からないよね。
自分が感覚で受け取っているモノでしか感じれていよねということ。
あるかどうかは関係ない。
あるかどうかはではなくて、感覚があるかどうか。
✔例えば「宇宙」
例えば「宇宙」
僕たちは色々な所で得た知識から「宇宙はある」という風に考えている人がいるのではないだろうか。
- 宇宙を見たことありますか?
- 触ったことはありますか?
おそらくないと思います。
しかし、僕たちは「宇宙がある」という風に勝手に思っているわけです。
どういうことかというと。
1つの宇宙があってそこに全員が入っていると思っているけれど、そうじゃない可能性もある。
つまり、1人1人が宇宙を持っていて、感覚だけで完結していて完結していないかもしれないし完勝してくるかもしれない。
上記を証明することができないわけです。
✔量子論との類似性
物理学者の方など理解できる人には余裕で理解できると思いますが、苦手な人は混乱しているのではないだろうか。
もう少し、色々と解説すると、「量子論との類似性がある」と言われています。
つまり観測者居て、観測者のによる影響を受けているとかいう理論で、凄くリンクするところがある。
(※理解が難しい人の中には「シュレディンガーの猫」ならイメージしやすい、聞いたことがある。という方もいるのではないだろうか)
あくまでも今見ているモノは確率でここに存在するしかない。
僕たちが見ている人も常に細胞が入れ替わっている。すると、厳密に言えば数秒前の人は違うわけです。
でも僕たちは一応●●さんというまとまった1つの個体として認識している。
つまり、認識のみが存在することを証明できるが、それ以外は証明できないわけです。
たとえば、【山に降り積もった雪が解けて、川へ流れ、それは湖や海へ辿り着く】
上記の過程(流れやシステム)の中でどこを認識するかで名称が変る。
みたいなことを、脳科学が発達していなくても、この認識だけで説明できてしまう。
それを突き詰めていったのが、具体的には下記の通り。
認識の追求
じゃあそもそも人間の認識ってどういうステップで成り立っているのだろうか?
つまり、脳科学などが発達していなくても、この認識だけで説明できるわけです。
具体的には、下記で深掘りしています。
✔五感+3つ
- 「視覚」・・・目でみる
- 「聴覚」・・・耳で聞こえる
- 「嗅覚」・・・匂いがする
- 「味覚」・・・味がある
- 「触覚」・・・触れる、身体が認識できる
- 「意識」・・・言葉を用い対象の概念を把握する
- 「未那識」
- 「阿頼那識
上記を1つ1つ定義していき、それがどのステップで、どのタイミングで、何を認識して、どうなっていっているから、その瞬間に自分がそう思って、この理論で考えた時に、生きるとか死ぬってどういうこと何だろう?みたいな感じの哲学です。
つまり、全部ロジックで構造解析していく。めちゃくちゃ突き詰めるわけです。
例えば、下記の通り。
だけど本来はここでこれが証明できないから、この認識ってかんちがいじゃねえの?
上記のように、ひたすらロジカルに突き詰める感じに、玄奘がハマった。
ロジカルに突き詰めるの、たのしぃ~♪\(^_^)/
しかし「原典が無いとこれ以上は突き詰められないぞ」(-_-;)
この知的好奇心から、彼はいてもたっても居られなくなるわけです。
✔世界の全てを司るは「認識」
ちなみに、後のエピソード#で触れるが、玄奘は砂漠を旅して途中で死にかけます。
この時に彼は般若心境を唱えています。
理由は「存在しないから」です。
具体的には、下記の通り
- 全ては認識なので、そもそも旅自自体が存在しないかもしれない
- 砂漠を歩いていると言っているが、砂漠は自分(玄奘)が感じているだけだと思っている
ここまで読んできた方ならもう分かるかと思うが、
死にそうになっているのは自分の認識の問題であり、存在しないからです。
つまり般若心境を唱えているのは、砂漠が暑いとかシンドイというのは全て自分の認識の問題だと思っているからです。
もしかしたら認識を変えれば行けると思っていたのかもしれません。
✔仏陀の座禅、悟りとは
ここまで、見て来て「認識の追求」であるということが理解できてくると、実は過去シーズン7世界三大宗教で触れていた疑問が解消できるので超面白い。
まだ玄奘のエピソードに入って無いのに僕はここでテンションが上がってしまった。
具体的に、下記の通り(シーズン7世界三大宗教、#36辺り参照)
これは外に出て色々な経験をたくさんした方が良いとされる考え方の世界では中々に無い概念であり興味深い。
つまり、自分の認識だけで全てが完結してしまうので、社会に出る必要が無かった。
ひたすらに感覚の中で感覚と認識について深め続ければ、必ずしも他者との関わりや社会活動といった外部からの刺激が無かったとしても深まるわけです。
※個人的に、新たな価値観、思考のモノサシが出来てテンションが上がったのですが皆さんはどうだったでしょうか。
僕自身、完璧に理解できたわけでは無いですが面白いエピソード#でした。相当に難解な哲学の話だったので皆さんの理解の補助になっていれば幸いです。
✔ヤバ偉人「玄奘」
ここまで述べたように「認識の追求」とそのロジックに玄奘が興味を持つのは共感できました。
しかし、彼の狂っているヤバ偉人ポイントは、「この興味(知的探求心)を満たすために砂漠を越えるなど半端ない旅をするところ」
- よっぽど知りたかったのか、真理の追究をしたかった
- 彼にとってのアイデンティティそのものだったのかもしれない
- これがちゃんと訳してあれば分かるかもしれないのに分からない。
- 仏陀が言ったことがもっとちゃんと残っているかもしれないのに、それが今の自分の手元に無くて勉強できない。
そして最終的に、「歩けば行ける。だから行く!」となる。
そこにそれだけの価値があると信じ切って、かつそれを行動するという行動力が彼にはあったということ。
#82 三蔵法師,旅立ち前夜ーイケメン過ぎて裏口入門!?(約17分)
- 読書家で優秀な父のもとに生まれ、優秀な兄を持つ。玄奘自身も幼い頃から頭が良くまさに神童だった。
- 国が乱れ民衆が虐げれている皆が疲弊している時代に、5歳で母を、10歳で父を亡くし、激動の10代を過ごす。
- 幼くして両親を亡くし貧困状態の玄奘とその兄は、兵疫の免除など優遇される公務員(お坊さん)になるため出家して試験を受ける
- 当時13歳の玄奘には試験を受ける資格が無かったが、試験管に頭脳とルックスから素質を見出され出家を認められる。
- 10代から一貫して「学びたい」という一心から場所を変え、国内移動(旅)を既に経験しており、ここでの小さな成功体験が後のインド旅立ちに対する決断の心理的ハードルを下げた
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三蔵法師、玄奘の幼少期についてのエピソード#になります。
彼の一貫してぶれない「学びたい」という思いに注目です。
三蔵法師、玄奘の幼少期(人物像)について
✔読書家で優秀な家族
玄奘というのは出家した後の名前であり、もともとの名前は「陳」さん(※ネイティブな発音はラジオで聞いてみて下さい)
三男一女の末っ子として生まれ、幼い頃からめちゃくちゃ頭が良かったらしく神童だった。
(※兄も優秀で後にお坊さんになる)
両親(祖父と父)は立派な人たちで凄く読書をする学者系の人たちでした。
- 「祖父」・・・国立大学の教授にあたるような地位の人
- 「父」・・・随に仕える公務員でそれなりの役職に就いている
- 「兄」・・・すごく優秀。後にお坊さんになる。
- 「玄奘自身」・・・三男一女の末っ子。幼い頃から頭が良くて神童。
両親たちの血を濃く受け継いでいる感じ、
同世代の子共と遊ばずに、1人で本を読んでいた。(休み時間にクラスの隅っこでずっと本を読んでいるようなタイプ)
仏教だけでは無く、儒教や道教の本など幅広く色々な宗教や学問の本を読みあさっている。
✔年表
「煬帝」隋(小野妹子が来た時)の時代における悪評高い皇帝の時代。。
今でも使われているような運河を作ったり、100万人くらいの人を集めて大きな戦争をするなど、民衆が虐げられているような時代に幼少期を過ごしています。
以下に、幼少期の玄奘について簡単な表にまとめたのでまずは確認しておきましょう。
時期 | 出来事など |
5歳 | 母が亡くなり、父が仕事を辞める 父も俗世から離れているような気質の人だったようで、役人の仕事が好きではなかったらしく故郷に帰って読書にふける |
8歳 | 玄奘に父が孔子の論語にある孝経を口頭で教えたら、めちゃくちゃ飲み込みが早くて暗記してくる これにはさすがに父から見ても優秀だと思ったらしい |
10歳 | 父も亡くなる。 両親を失い生きるために優秀な兄が家を出て出家(お坊さんになる)する。 出家(お坊さん=公務員)になった兄は名前が「陳素」から⇒「長捷」へ変わり、洛陽という大きな街に行き公務員(お坊さん)をしていく 両親を亡くし貧困の中で兄も家を出て行き、玄奘も洛陽へ兄の後を追っていく事となる |
10代前半(随の時代) | この時点で玄奘は経典をだいぶ暗記しており、暗唱できるような状態。法華経も読めるし理解している。 随の時代は2代で終わるので、その後は唐の時代になる。 当時の随は戦争をしたり皆が疲弊しており、後に反乱によって随は滅びる(清の滅び方とほぼ同じ) |
13際 | 随の時代に洛陽でお坊さんを新たに27人採用するというお達しが出る お坊さん(公務員)になれば優遇される。(労働、納税をしなくてよい、兵疫も免除される) 貧困状態の玄奘と兄にとって公務員になるメリットが大きい おそらく2人は勉強したかったのだと思う。勉強するのに兵疫なんてしてられない。邪魔でしかない |
試験会場へ行く | 13際の玄奘にはそもそも試験を受ける資格がないが、とりあえず会場入り口まで行ってみた 兵疫免除など優遇されるので数百人もの応募者が来てしまった 試験官が玄奘を見つけて、問答とルックスから素質を見出された玄奘は出家(お坊さん)になることが認められる。 |
不穏な国政、世が乱れる | 煬帝と言われる暗君で有名(実際はそこまで酷くなかった説もある)な人が、かなり民衆を虐げてしまった。 煬帝は仏教の復興にすごく力を注いで、たくさんの仏塔や仏像を作らせるなど仏教に対する功績はすごくあるが、一方で人民を戦争や土木工事に徴発し過ぎた結果、反乱が起きてしまう。 どんどん世が乱れ、比較的安全に生活できていた寺での暮らしさえもヤバくなってくる。 |
16歳 | 上記の様に世が乱れる中で、反乱軍が洛陽方面の米倉を占領する。これにより洛陽市民が食糧難でたくさんの人が餓死していく。 この頃の玄奘は13際からずっと寝食を忘れて勉強しまくっている状態。 勉強しながらもちゃんと情勢を見ていて、これでは仏教(勉強)に専念できないと思い、兄に長安へ一緒に行くよう提案する ※基本的に玄奘は勉強が出来なくなると移動します |
学ぶための移動 | 長安へ移動したが、今度は先生も居なければテキストも無い。学べる環境が無いので、再度移動する。 自然の要塞に守られた平和な学術都市「蜀」へ兄と一緒に移動する。(蜀については シーズン6諸葛孔明で出て来ます。#28辺り参照) 学びたい一心からここで旅を経験している。蜀への道乗りは厳しく断崖絶壁などを超えて行く。 実は考えることは皆、同じだった。全国から学者系の人たちが蜀に集まっており、そこで玄奘は難しい話をこの時に聞いて学び盛り上がる。 |
✔小さな成功体験が後の人生に影響しているのかもしれない
早期に両親を失い、国が乱れて激動の10代を過ごした玄奘。
彼にとって楽しいことが勉強だったのか、ずっと勉強したいというのが1番のエネルギーになっていました。
この後、玄奘はインドへの旅立ちを決意するのですが、
幼少期の時点から既に「学ぶために場所を変える」という経験を何度か行っている。
この経験が彼にとってインド旅立ちへの決断をライトなモノにしているのではないだろうか。
つまり、この経験が無ければおそらくインド旅は心理的にハードルが高過ぎて決断出来なかったのかもしれないといういうこと。
彼は学べない環境だからこそ、遠くは無いかもしれないが国内移動をしており、それなりに大変な旅を経験している。
学ぶため、或いは戦乱に巻き込まれないようにだったかもしれないが、しょうが無くしなくてはいけない旅をしているわけです。
実際に【洛陽へ行き、情勢が悪くなり⇒長安へ行くがダメだった⇒しかし蜀では成功した。】
この小さな旅の成功体験を重ねる経験は彼の人生に大きな影響を与えているのではないだろうか。
玄奘の移動のイメージに、以下の図解を参考にどうぞ。
✔玄奘の一貫してぶれない「学びたい」思い
周囲がざわついても、自分が本当に興味のある(学び)を求めてそれ以外を速攻で切り捨てて行く感覚。
(ヤバ偉人の片鱗を示していますよね)
詳しくは後のエピソード#で解説しますが、「なぜ、この人が西遊記の旅に出る決意に至るのか」
つまり、これだけ優秀な人が命が惜しくてただ戦難を逃れているだけであれば、この後で西遊記の旅に出ないはずなんです。
要は、そうじゃ無かったんだということが分かりますよね。
この時もおそらく「学びたいから」場所を変えているんです。
西遊記(インド)の旅も同じで、彼の心は10代から一貫して変らず「学びたい」であるということがわかるわけです。
#83 井の中の玄奘、大海を知る。真理を求めてインドへGO!(約16分)
- 玄奘は既存の外国人に翻訳されている経典だけでは研究の限界を感じ、真理を追求するために原典が必要だと考えるようになる。
- 学びを求めた旅(移動)で異民族と出会う経験が、インド旅立ちへのハードルをさらに下げていった
- 玄奘は原典の国(インド)から来たお坊さん(クラバーカラミトラ)と出会い、ナーランダ大学の存在を聞き知ってしまう。
- 真理を追求したいという玄奘の性質と、旅への心理的ハードルを下げる過去の経験からインドへ命がけの旅立ちをついに決意する。
- 旅への決断後、出国に向けて玄奘は1年間で「サンスクリット語など外国語の勉強」と「情報収集」をした。
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幼少期から続き、玄奘がインド(西遊記)の旅に出る決意をする所までエピソード#になります。
壮大な旅の幕開けです。
バックパッカー玄奘、学びを求めて続く移動
✔再び移動「長安」へ
前エピソード#82から続き、玄奘は蜀で21際を迎え成人します。
ちなみに、この時点で兄は教壇に立つようなとても立派な人になっています。
儒教、道教、仏教、全て(当時の中国のメインとなる学問を全て抑えている)を習得して教えているというめちゃくちゃ優秀な兄です。
そして玄奘はこの時21歳時点で、蜀で勉強し尽くしてしまい「ぶっちゃけ、本人からするとこれ以上もう学ぶことがない」
つまり、現代のように書物の数も限られており溢れるほどあるわけでは無い。それら限られた書物を毎日暗記する程読んで考え尽くしたわけです。
そして、もうわかるかと思います。
玄奘は新しい学問(テキストなど)を求めて「長安」に移動します。
(※長安から逃げて蜀に来ていましたが、この時は随が無くなり唐になっているので、同じ長安でも「唐の街(長安)」としてまた新たに変っているわけです)
もうこれ以上は学ぶことが無いし、次は長安に戻りたい。
いや、待て待て待て。
確かに、今まではは戦乱だったから逃れてきたのは理解できる。でも今は平和だし地盤固まったじゃん。
じゃあここで暮らせば良く無い?
【結果】玄奘は兄に反対さたので、全然いうことを聞かずに黙って出て行く。
✔頭脳だけじゃない、社会性の高さを発揮
ちなみに、玄奘は「商人と仲良くなる」というテクニカルな方法で出発します。
この商人と仲良くなりそこに紛れる形で脱出するわけです。
ここで発揮するIQの高さにはコミュニケーション力など社会性があり、玄奘がたた頭の良いだけの人物ではないことが分かります。
この時点で玄奘は結構な有名人です。
- 蜀でそこそこ名を上げている立派な人
- 自分から「もう学ぶことがない」とか言っている位には勉強している
- 色々な人たちに仏教講義を求められたら行っている
旅の途中には高名な僧(有名なお坊さん)がいて、そういう人たちに会いに行き、数ヶ月など滞在して議論する。
そして学ぶことが無くなったら、また次に行く。
玄奘が長安に到着したのは23歳。
上記のように、学びながらの旅(修学旅行)をしながら唐の街「長安」へ向かっている。
✔玄奘23歳、長安に到着
既に述べているように、中国にはたくさんの異民が入ってきており、現在でいう所のシンガポールのような感じ。
唐の街「長安」は国際都市になっていて、ゾロアスター教、マニ教、ソグド人、トッケツ(遊牧民)など色々な人たちがいる状態でした。
ここでまた、玄奘がインド(西遊記)の旅に出る決断をする歳の心理的ハードルが下がったのではないだろうか。
どういうことかと言うと、下記の通り
彼らと会ってしゃべることで心理的ハードルが下がった。
つまり、1度も見たことが無いよりは事前に見たことがあることで、自分が目指す所と今の自分が居る場所が繋がっている感覚を持つ(イメージ)することが出来た。
現在でもバックパっカーを経験している人を見ると、旅へのハードルが低いし、誰とでも仲良くなるコミュニケーション能力が高いように見える。
玄奘にもバックパッカー的な所があり、旅へのハードルが低い。
何事も慣れなのかもしれない。
知的欲求の不満、研究の限界
23歳で長安に到着してから27歳になる玄奘。
彼は、この時点でとうとう「中国で学ぶことは無い」となってしまう。
これ以上、中国に居ても深まらないぞ。
大乗仏教をの哲学(真理)を極めるには、中国にいるお坊さんに聞いてもこれ以上は分からないし、中国にある中国語訳のお経を読んでも分からない。
この目の前にあるお経は西方の人が訳している。原典はサンスクリット語であり、中国語とサンスクリット語が話せる中国人では無い全然違う国の人が訳している。
これはとてもすばらしいことではあるが、おそらく正確ではないぞ。
唯識論のところで全部がロジックで突き詰めているという話を既に述べている。
おそらく、玄奘はロジックで突き詰めて矛盾を見つけてしまったんだと思います。
誤訳や言っていることは同じなのに違う語彙を使っている。「Qなんで?これ違うんじゃね?」
高名なお坊さんたちに相談しても返ってくる答えに、もう頭が良すぎて本人が納得できないレベルにまで達してしまう。
ここで、原典に触れる必要がでてくるわけです。
✔旅立ちへのハードル
1言で「旅立つ」と言っても実は簡単なことでは無い。
なぜなら、そもそも法律で禁止されているからです。
- 唐という国はまだ出来たばかりだったのでスパイなどをあまり入れたくない。
- 外国人はたくさんいるがちゃんと管理したい。
- 外に人を出したくないので制限している。
上記の通り、旅にはまず許可が必要だったわけです。
当然、玄奘は申請したのだけれど許可が出ない(ダメ)だった。
玄奘、インドへの旅を決意
第一の壁として出国の許可が出なかった玄奘。
しかしこのタイミングで彼に取って重要な出会いがありました。
✔ターニングポイントとなる出会い
ここで玄奘にとって重要な出会いがありました。
インドからクラバーカラミトラというお坊さんが来て、彼らは出会ってしまうわけです。
原典の国(インド)の人が来たぞ。これはもう絶対に会いに行かないとダメでしょ。
今のインドって、仏教はどんな感じなんですか?
ナンダーラという大学で、めちゃくちゃ頭の良い人たちが集まって議論してるよ。
そこには、シイラバトラという凄まじい教授がいるよ。
玄奘がこれを聞いてしまったら、もう行くしかないんです。誰も玄奘を止められない。
玄奥がどういう心境(思考プロセス)で決断に至ったのかについては、下記の通りです。
- 今までに外国人にあったことがある
- 学ぶために移動するという小さな成功体験を既に何度か積んでいる
- プラバーカラミトラから話を聞いて、知ってしまう
- 仏教が伝わって直後くらいから、既に中国からインドへお坊さんが何人か行っている
- 危険で亡くなっている人もいるが、人の往来が0では無い事実がある
上記の事実が最終的に彼を決断へと導いた。
彼は「自分にもできる。人間に不可能ではない」というい風に考えたのだと思う。
もともとの性質として玄奘には「真理を追究したい」というのがあって、既に述べている様に色々な経験からハードルが下がっている。
だから、玄奘が命がけでも行く。となってもおかしくはないのかもしれない。
✔行くと決断してからの行動
玄奘が行くと決断してから、まずしたことは
- 言語の勉強
- 情報収集
玄奘がまず始めにしたのは「言語の勉強」。外国語の先生に師事して勉強を始めます。
具体的には、下記の取り
- まずは原典をちゃんと理解したい
- サンスクリット語を読める必要がある
- サンスクリット語の他にも2、3カ国語を勉強したと思われる
インド旅の途中で130ヶ国ほど通過しており、言語圏が7カ国語くらいはあるのでそれくらいはしゃべれないといけない。
後のエピソード#で触れるが玄奘の地頭の良さ(本物の天才っぷり)が分かるエピソードを紹介
- 旅の途中で王様に好かれて助けて貰う(これはお互いに何を言っているか分からないと難しい)
- 既に述べている唯識の思想、今回は日本語で解説してるが玄奘はこの難解な哲学を外国語でやっているわけです
- 外国語で6000人ののディベート大会に出場して優勝する
言語の勉強をしつつ、長安に在住している外国人たちから色々な最新情報を聞きまくり情報収集を行っている。
あなたはどの国から来たの?
その国はどういう所なの?
どういうルートで行くの?
上記の通り「言語の勉強」「情報収集と計画」を1年くらいやってついに出国する。
(※逆に言うとたった1年間で何カ国語も身に付け、計画まで立てている)
28歳、玄奘ついに出国
- この時、玄奘は有名なお寺の住職になってくれないかというオファーを貰ったりしているが、旅に行く決断をしているので全て断わっている。
- この頃、別軸ではムハンマドがメディナを包囲してイスラームを勝利に導いている頃になります。イスラムが生まれる。この時にスラム帝国から唐に使者が来たりする。(シーズン7世界三大宗教#35参照)
✔遂に始まる西遊記の旅
28歳、玄奘はついに出国します。
1度申請してダメだったように、国境の往来は厳しく制限されており、捕まれば法律違反ので既に結構なリスクです。
ここでは、学友のコウタツという人が西方の生まれだったので、この人の里が帰りについて行く形で西方へ旅立ちます。
こうして、やっと天竺を目指す西遊記の旅が始まるわけです。
✔社会性の高さはどこで身に付けたのか
ここで実は1つ疑問があり、それは
「Q人を説得したりコミュニケーション力など、社会性の高さはどこで培ったの?」
ここまで、玄奘をみる限りまさに「勉強しかしていない」
- 純粋に恋愛や性欲をどうしていたのか分からない。
- 友人とも遊んだりしていない。
- 伝説に彩られているので嘘の部分もあって、本当は遊んでいたのかもしれない。
- 幼くして両親を亡くしており、だいぶ苦労しているので、勉強以外の時間に生活を立てる為の時間が必要だったので、もしかするとそういう所で社会勉強をしたのかもしれない
上記の想像の他、パーソナリティの楊睿之(通称:ヤンヤン)さん。
中国人の感覚でいうと、中国で生きて行くにはある程度のサバイバル力が必要なんだそうです。(例えば、切符を買う時に並ばないのでどういう風に割り込むか、ふっかけられずに安く買うにはどうするかなど)
玄奘は幼くして両親の庇護無く生活しなくてはいけなかったので、そういう意味では生活力(サバイバル力)は高いのかもしれない。
つまり、幼少時代に両親に不幸があった事などもある意味で玄奘の礎になっているのかも知れません。
#84 本当は1人ぼっち?三蔵法師のリアル西遊記(約25分)
- 玄奘の旅は安全になるよう評判や外交など戦略的な計画を立てて行われていた節がある。さらに言語の習得、情報収集などちゃんと準備もしており、危険ではあったが無謀な旅では無かった。
- 寒暖差100°のタクラマカン砂漠を1人ぼっちで横断する。この時に玄奘は飲まず食わずで彷徨い幻覚幻聴で死にかける。ちなみこの時に彼は「般若心境」を唱ていた。
- 旅の途中で高昌国の王様、麹文泰と出会い、旅の道具や経費などをサポートしてくれる。玄奘の最大のスポンサーになってくれた。
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ついに始まった玄奘の壮大な旅についてのエピソード#になります。
まずは、旅の全体像(#84)を簡単に表にまとめたので主な流れを確認しましょう。
ポイント | 出来事など |
唐の国境「涼州」 | コウタツとは早々に別れ西へ進む 外交や評判を戦略的に使って、旅が安全になるようにしている節が見られる 長安を去ってから約1000㎞ほど進んでいる |
瓜州 | ここから先はいわゆる漢民族(玄奘視点)の知らない土地 川や監視塔などハードルが高く、超えるための情報収集で1ヶ月滞在する 法律を侵しているので追ってが来てしまい逃げるため強制出発 案内人のソグド人(セキバンダ)さんと共に出発 |
監視塔の地獄 | 監視塔や追ってを説得しながら突き進む 案内人のソグド人(セキバンダ)さんが離脱 |
タクラマカン砂漠 | 飲まず食わずで彷徨い。幻覚幻聴で死にかける 「般若心境」を唱えながら九死に一生を得る 地理的には「ウィイグル」の辺り |
「イゴウ」という国に到着 | ソグド人がメインで、3人ほどしかないかった漢民族と出会い感動される 漢民族の地域から離れてきていることが分かる 特に学ぶ事が無かったので10日ほどの滞在 |
高昌国に入国 | 王様である麹文泰と出会い歓迎を受けて、玄奘は最大のサポーターを獲得した |
亀茲という国へ | 今の中国でいうウイグルの辺り この辺りから大唐西域記(旅の道中で書いている地理史のようなモノ、どのような土地だったか書き記したモノ、メモ)に書かれているようなメモを取り出している。 |
旅はまだ次回エピソード#に続く |
戦略的に西へ西へと進む玄奘
ついに壮大な旅に出た玄奘ですが、ここから帰国するのが17年語になります。
つまり40数歳で帰ってくるわけです。(天竺へ行き、インド中を巡り回って帰る)
17年前の今頃、皆さんは何をしていましたか?
玄奘の旅がどれくらい壮大なものだったかが想像できると思います。
✔戦略的に安全な旅を計画
まず始めに、コウタツとは早々に別れ1人で西へ西へと向かって進みます。
ここで玄奘が凄いのが、彼は評判や外交を戦略的に使って、旅が安全になるように戦略的に行っている節がある。
例えば、唐の国境「涼州」という所で、仏教講座を行ったりしている。
具体的には、下記の取り
- 仏教講座を行うことで、民衆が玄奘が凄い人物であると認識する
- この民衆たちが玄奘を逃がしたり、手伝ってくれる。
- 味方を作って、増やして。(フォロワー数を増やしていくわけです)
- 西方へ向かう僧がいるぞという噂が広がる。
そして、この国境の街には李大亮という知事のような人がいた。
玄奘の噂は聞いている。彼が立派なのは分かるが、私には立場がある。
玄奘がしているのは法律違反であり、それを自分は取り締まらなくてはならず。見過ごすことはできない。
「どこにいくんですか」
西方へ行きます!
あっっ言っちゃった(・ω<) てへぺろ
あれっ?じゃあ止めなきゃいけないじゃん(犯罪だから)
「まぁ、都に帰って下さい」
このピンチを玄奘は、他の人(「エイ」と言う僧)を説得し、この人の助けを得て夜に逃げていくという作戦で回避して行く。
(※この時、長安を去って1000㎞ほどです)
✔瓜州で1回どうしようもなくなる
次に瓜州という所に着くのですが、ここには「ドクコタツ」という役人がおり、彼は玄奘を歓迎してくれた。
いよいよここから先は漢民族が知らない土地だぞ
ここより西って、どういう状況なんですか?
ここから北に向かうと深い川があって渡れませんよ。
川の上流には関門があるので、そこも通れません。
では、他の方面はどうですか?
百里毎に5つ程の監視塔のようなモノがあります。なので多分無理だと思いますよ
ここで、玄奘は1回どうしようも無くなり困ってしまう。
困った玄奘がしたことは、下記の通り
- 1ヶ月くらい滞在して
- 言語の勉強などをしながら
- 西方出身のソグド人たちから色々な情報を集める
上記のようなことをしている内に、玄奘は「「仏教を追い求めているお坊さんが法律を侵して西方に行っているぞ」と捕まえるための追っ手が来た」という噂を聞きつけます。
ここで玄奘は「強制的に逃げる」しかなくなってしまい、下記と共に先へ進むことになる。
- 馬1頭
- 案内役のソグド人1人(名を「セキバンダ」と言う)
✔追ってから逃げ、5つの監視塔を越える
追ってから逃れるようにして出発する(追ってを説得した説もある)のですが、
A「普通に見つかります」(5つ中5つ、全て見つかります)
結局、玄奘は見つかり捕まるのですが、全て説得してトーク力で乗り越えました。
何してるんだ!お前!
西方に法典を求めて行きます
ここから先へはどこに行けば良いですか?
●●●まで行きな
玄奘は監視塔で見つかり捕まるのですが、上記のように説得(仏教の何か良いことを言ったりしたのだろうか?)して、解放されると次の経路を聞いたり助けて貰う。
でも、結局は次の監視塔で見つかって、、、を繰り返して進んで行き
砂漠の入り口(タクラマカン砂漠の端っこ)に辿り着きます。
苦労ポイント、1人ぼっちで砂漠横断
✔九死に一生「1人ぼっちで砂漠を横断」
タクラマカン砂漠の端っこに辿り着き、先へ進まなくては行けない。
予定では案内役のソグド人(セキバンダさん)と一緒に通過するつもりだったと思われるが、
彼は、監視塔を越える際に途中で嫌になってしまって、「玄奘にはもうついて行けない」ということで、途中離脱してしまった。
これまでの国内移動で旅に慣れているとはいえ、砂漠を歩いたことがない人間がタクラマカン砂漠を横断するというのは相当ハードルが高く。ここで玄奘は死にかけます。
具体的には、下記の通り
玄奘はここで「幻覚幻聴を経験」し、水を入れた袋をこぼしたらしく「4日間水も食料も食べられなかった」
上記のように死にかけるのですが、【伝説】では下記のようにして砂漠を越えたとされている。
玄奘は途中で気を失ってしまうが、その馬がオアシスまで勝手に運んでくれたおかげで九死に一生を得た。
とされている。
おそらく下記の通り3つは史実なのではないだろうか
- 「監視塔で見つかった」
- 「セキバンダが離脱した」
- 「砂漠で死にかけた」
こうして、玄奘は1人ぼっちの砂漠横断をなんとか生きて乗り越えるわけです。
✔強靱なヤバ偉人のメンタル
ちなみに、玄奘は砂漠で死にかけた時に「般若心境」を唱えている。
理由は下記のような思考(#81を参照)
寒い・熱い・腹が減る・目が回る・ヤバイ!
「これは幻だ」「私の認識の中にしかないんだ」
上記も凄いが、もう1つ凄いのが「引き返さなかった」点です。
具体的には、下記の通り
つまり、水をこぼした時点で1回引き返せばいいんです。だって戻れば水がどこにあるか分っているのだから。水をくみ直して再スタートすれば良いはず。
しかし、彼はそれをしていない。
「引き返す道が分からなかった」のかもしれないけれど、
記述によると「絶対に引き返さない」と決めていたそうです。
「西に進んだらそれ以上は絶対に東へ行かない」というメンタルで『般若心境』を唱えながら、九死に一生を得ながら何とか砂漠をえたわけです。
✔砂漠を越えて「イゴウ」という国に到着
砂漠を越えて、地域としてはウィグルの辺り。
次に、「イゴウ」という国に到着します。
- もともとは匈奴が属していた地であったが、随の末期くらいに漢王朝が途中で奪取している。
- 植民地にして居り、ソグド人などがたくさんいる。(殆どがソグド人)
- つまり、王朝が1度変っているが漢王朝が奪取しているので、まだ中国人(漢民族)の息がかかっている土地。
殆どがソグド人のこの地で、玄奘は寺に泊まろうとした。
するとそこには漢民族が3人居たそうです。
この3人が、玄奘を見た瞬間に泣きながら抱きついて来た。
理由は「まさかこんな所に同じ漢民族が来ると思って居なかったので感動した」
具体的には、下記の通り
- 唐が出国を禁止していて、3人はソグド人(外国人)多数の中で生きていた。
- 3人は仏教徒であり、その仏教の崇高な目的な目的を持った同じ漢民族が命がけで砂漠を越えて来た。
- 現代では遠隔地であってもSNSなどによって簡単に話したりできるので彼らの心境を理解しづらいかもしれないが、塑像してみてほしい。
上記の理由から、
「3人がすごく感動して、玄奘に駆け寄り、涙を流して喜んだ」ということが記録として残っている。
ここから分かることは、玄奘の旅が「それだけ漢民族から遠い地へ来ている」ということ。
【余談】
ちなみに玄奘はこの地に10日間ほど滞在して次の国へ向けて出発します。
(※おそらく学ぶ事が少なかった。玄奘は学ぶことがあると何年、何ヶ月と滞在する人です。つまり、玄奘の滞在時間がある意味でその土地の知的パロメーターになるわけです)
運命的な出会い高昌国の王様、麹文泰
次に高昌国という所へ行くわけですが、もともとは旅のルートに入っていなかった。
どういうことかというと、下記の通り
- たまたま高昌国の使者がイゴウに来ていた。
- 事前に使者が玄奘を察知しており、高昌国に戻って王様に知らせる
- 高昌国は、これから仏教を盛上げて行くぞ。という国だったので玄奘を大歓迎する。
ぜひ、高昌国に立ち寄って下さい。
お願いします。
旅のルートに入ってない。時間かかるじゃん。めんどくせぇー。
渋々立ち寄ることになったこの高昌国で、玄奘は麹文泰という王様と運命的な出会いをします。
- 今の国教だと中国に入っているウィグル自治区のトルファン市、という所にあったらしい。
- 仏教とゾラアスター教の2つしている国だったが、王様は仏教をメインに盛上げていきたい。という感じの国。
✔玄奘VIP待遇、しかし眠い
寺で3人の漢民族に感動された国(イゴウ)⇒高昌国へ辿り着くのに6日間かかり、道中にはあまり寝られず夜に着いたそうです。
- 夜に着いたにも関わらず、王様や王妃や家臣たちが並んで出迎えてくれるという超VIP待遇。
- そしてまさかの、1人ずつ挨拶し始めるという展開。
- 朝まで挨拶が続き、夜通しもてなされ、歓迎された。
上記に対して、玄奘は「めちゃくちゃ眠いし、しんどかった」と言われている。
王様を相手に「眠いから寝させて」とは言えなかったのかもしれない。
王宮に着く前、門番がいるような建物に着いた時点
「疲れているので、寝させて下さい」
いやっ、王様が待っておられるので絶対に行って下さい
✔麹文泰との運命的な出会い
高昌国は仏教とゾロアスター教の2つが信じられているが、仏教をメインとして盛んにしたい。
玄奘が来てくれる事は、政策の目玉にもなるし、すごく良いことだ。
もともと高昌国には用が無いし、早く次に旅立ちたい。
玄奘と話をするほどに、その凄さが分ってしまう。土下座級で残って欲しいという話になる。
「この国に居て下さい。旅に命をかけなくて良いから、ぜひここに居て下さい。お願いします。
NO!!お断りします。
断わるのなら、殺すぞ!!
分かりました。では断食します。(※まさかの、ガンディースタイルのルーツがここにあったわけです)
(シーズン10ガンディ#59辺り参照)
4日間の断食で玄奘がどんどん衰弱する姿を見かねて、ついに諦める。
「分った、諦める。だが条件が2つある」
- 旅が終わってインドから帰る時に、ココへ立ち寄って欲しい。そして、弟子を育てて仕組みを作ってから中国へ帰って欲しい。
- これから出発する前に、最期に1ヶ月だけ般若心境の講義をして行って下さい。
✔玄奘、旅のスポンサーを獲得
上記の条件があって、玄奘もついに高昌国を旅立つわけですが、
ここで麹文泰が玄奘の旅をすごくサポートしてくれる、つまりスポンサーになってくれたわけです。
具体的には、下記の通り
- 服を30着(さらに西へ行くと寒くなるので「手袋・防寒着・靴」をくれた)
- 20年分の経費(大量のお金「黄金・銀貨」)
- 馬20頭、お付きの人25人
- ここから先国24ヶ国の王に対するお土産と「手紙」を準備してくれた(各国の王との繋ぎ役になってくれた)
ここから先(西)は完全に中国の領域を越えて突厥という遊牧民の領域に突入します。
そこで突厥(遊牧民)のトップである「肆葉護可汗」という人を目指して会いに行く。
突厥(遊牧民)のトップである「肆葉護可汗」とコネを作っておいた方が良いよ。
この人に特別にお土産を持っていきなさい。私からの手紙も書いておいてあげよう。
最初は結構ウザがっていたけれど、ここまでしてくれるのか。
ありがとうございます。感動しました。旅が終わりインドから帰国する時には絶対に立ち寄ります。
✔「大唐西域記」のメモが始まる
上記の通り、玄奘は最大のスポンサーになってくれた麹文泰に最期は恩義を感じている状態で次を目指し出発します。
次に亀茲国へいきます。
- 今の中国でいうとウィグル(アクス地区のクチャ市)の辺り。
- この辺から「大唐西域記」に書かれることとなるようなメモを取り始めている
- 「般若心境」の玄奘が訳す前のversionを訳している「鳩摩羅什」という人がいる。彼の出身地。
- 仏教が盛んな仏教国、ここら辺で生まれた人たちが中国語に訳していた。
- 寺院が100箇所あり、僧侶も5000人以上いるような、仏教が盛んな仏教国。
上記のような亀茲国で、玄奘は華僑な歓待を受けて(すごく丁寧にもてなされる)が「大唐西域記」によると冷静でドライな評価が書かれてる。
丁寧にもてなされはしたが、ここの王様はだいぶ頭が悪い。
王様は周囲の言いなりで自分を持っていない。
すごく優秀な人が覚めた目で、相手の国の社長を見るかのような、冷静でドライな玄奘の一面が見て取れる。
#85 玄奘ウルルン西遊記ー三蔵法師が遊牧民の王と出会った(約21分)
- 氷山を越えるが4割が亡くなり、山賊に身ぐるみをはがされ、海賊に生け贄に捧げられ、困難な旅が続く
- 玄奘は肆葉護可汗とも仲良くなり、遊牧民トップの保護下でかなり安全な旅をすることができた
- ついにインドに到着。ここからがスタートライン。
- 玄奘が困難な旅を乗り越えられた秘訣は「味方を増やす外交力」「情報収集と言語力」「攻守の思考バランスが優れている」
- 「大唐西域記」の記録から玄奘は、仏教に1点集中して極めている一方で他教徒への寛容が無い側面も見られる。
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まだ続きます。玄奘の壮大な旅について(後半)エピソード#になります。
まずは、旅の全体像(#85)を簡単に表にまとめたので主な流れを確認しておきましょう。
ポイント | 出来事など |
氷山を越える | 雪解けを待ってから挑戦するが十分では無かった。やはり玄奘は引き返さない お付きの人25人居たが、4割が亡くなる ここでも般若心境を唱えて、強靱なメンタルを発揮する |
遊牧民の王、肆葉護可汗に会う | 玄奘は肆葉護可汗とも仲良くなり通訳や手紙(お墨付き)を貰うなどサポーターを増やす 遊牧民の王の保護を受けられる状況は何百ヶ国を渡る旅を安全にすることができた1つの条件となる。 |
サマルカンドへ到着 | 今でいうウズベキスタンの辺り 玄奘が来る1000年前にアレクサンドロスが来ている部分と少し被る 麹文泰と肆葉護可汗の手紙があるのでスムーズに王と謁見しサポートを受ける事ができた |
何カ国か滞在し道中に勉強しながら進む | 滞在先に玄奘が滞在中に王が暗殺されてその息子が王として突然声をかけてくるなど、色々な事件に遭遇 |
仏教の聖地「バーミヤン」に到着 | 砂漠を越え、緑が豊かな土地である様子が大唐西域記に書かれている。 現在はタリバン政権により破壊されてしまった(通称バーミヤン大仏と言われる男像(大仏如来)、女像(釈迦像))が当時はあり、玄奘も見たと言われている。 |
ついにインドに突入 | インドがゴールではない。インドについてからがスタートです。 山賊に襲われお金などを全部取られ、海賊の捕まりガンジス川で生け贄に捧げられかける。 |
色々な国を巡る | ガンダーラ、カシミールなど 玄奘の滞在時間が、その土地のパラメーターになる。 |
玄奘が旅を決断したきっかけ「ナーランダ大学」へ行く。#86へ |
4割を失い、過酷な氷山を越える
前回の旅では砂漠でしたが、今度は氷山が行くてを阻みます。
凌山という山を越え、肆葉護可汗が居るとされる城を目指します。
どれほど過酷だったのか、具体的には下記の通り。
- 玄奘たちが氷山のふもとに到着したのは冬。雪解けを待ってから挑戦したが、十分ではなくて苦労することになる。
- 記録では「天にも達するほど高い山だ」と記されており、氷雪が積もり夏になっても解ける事が無い。
- 氷河があり、氷塊が落ちてきたり道を塞いでいるため、ここで馬が使え無くなってしまう。
- 靴や手袋をしていても寒すぎて亡くなる人が出て来たり、凍傷になったりしていた。
- 風が吹くと砂や石が雨のように降りかかるといった描写もある。
- 寝る場所も氷河なので、氷の上で寝るしかなくて大変。
上記の通り、メンタルが折れたら終わりそうな過酷な状況。
やはり砂漠同様に玄奘は般若心境を唱えており、雪解けが十分では無いと分った時点で引き返すことなく突き進み。
半分ほどを失いながらも玄奘は生き残り、遊牧民の王である肆葉護可汗に会うことになる。
肆葉護可汗と会う
遊牧民の王がどんなものかという描写が書いてあり、
めちゃくちゃ豪華絢爛なテントに、数百人の家臣がバー並ぶ真ん中に肆葉護可汗が居る。
ちなみに、肆葉護可汗とは固有名詞では無い。
カーンには「トップ」という意味がある。
上記のような、肆葉護可汗と玄奘は話をして、ゾロアスター教徒だったけれど、麹文泰の時と同様に気に入られて仲良くなります。
- 通訳をつけてくれた
- 手紙(お墨付き)を貰えることになる
上記の通り、玄奘はさらにサポーターを獲得していくわけです。
そして、これらの手紙があることで「その先で百何十ヶ国を安全に渡ることができた」
つまり、パスポートの変わりのようなモノになったわけです。
肆葉護可汗は色々な遊牧民(集団)の中でもかなりトップに立っていた人物なので、その保護下で旅をすることができたのは安全上でもかなり大きな意味があり条件となった。
✔サマルカンドへ
玄奘は次にサマルカンドという所へ行きます。
- 今のウズベキスタン
- 玄奘が行く1000年前にアレクサンドロスが来ている。(ペルシャの後にインドへ向かったお話、シーズン11#70辺り参照)
- 仏教とゾロアアスター教の2つが信仰されている国
中国からインドへ向かう時、直線で向かうことができない。
そのため、かなり北の方から山脈を迂回すルートを進んでいる。
(※地球1周半も歩いている原因の1つ)
ここでは、麹文泰と肆葉護可汗の2人の手紙を持っているので、玄奘はスムーズに王様に謁見し、食料や物資を貰い保護して貰っている。
✔仏教の聖地バーミヤンへ
過去アレクサンドロスが来ていたサマルカンドを後に、玄奘は道中に有名なお坊さんがいるとその地で1ヶ月や2ヶ月と勉強しながら先へと進む。(まさに修学旅行)
そして、遂に仏教の聖地といわれる「バーミヤン」に辿り着きます。
- 昔は仏教の一代聖地、「バーミヤン」とは国の名前
- 旅の中で、砂漠を横断してきているが緑豊かな土地になってきている様子が大唐西域記に書いてある
- 仏教施設が数十箇所あり、僧も大勢いる。
- 2001年頃、タリバンに爆破されニュースにもなった、壁面に掘られた大仏があった場所。
王様が臣下を連れて玄奘を迎えてくれており、ここでも勉強します。
現在は爆破された壁面に掘られた大仏を、おそらく玄奘は見ているという風に言われている。
✔ついにインドへ突入!コールでは無くスタートです。
玄奘の壮大な旅もついに、ここから先はインドへ突入する。
ここまでの旅で玄奘は砂漠や氷山などの自然と戦ってきたが、
インドでは山賊と海賊のダブルアタックで人に襲われる。
- タッカ国で山賊に襲われ、衣服など全部奪われ裸になるが、タッカ国の中で布や食料を寄付して貰っている。
- 玄奘の見た目が良いとの理由から、ガンジス川で海賊に生け贄に捧げられる。どうやって逃げたかは不明だが、捧げられる時に玄奘が落ち着いてお経を唱えていたのに海賊がビビった。宗教心で捧げようとしてるのに逆に神聖で殺せなくなった。という説がある。
ちなみに、玄奘の旅はインドに着いたら終わりではない。
ここからお経を求める旅が始まる。やっとスタートなんです。
色々とまわっているので、省略しつつ簡単に紹介すると、下記の通り
- 中心都市はペシャワール。医師の中村哲さんが銃撃された事件で知っている方もいるのではないだろうか。
- アレクサンドロスが来たことによってギリシャ文化と仏教の文化が混じって、銅像がギリシャっぽい。ヘレニズムと呼ばれる文化。
【カシミール】
- 玄奘は2年間も滞在しており、高僧との議論や仏典の研究に没頭する。
- 玄奘の滞在時間は、その土地の知的レベルのパロメータになっている。頭の良い人が居たりすると滞在時間が長くなる。
仏陀の生誕の地や仏陀が亡くなった所など、仏陀にゆかりのある地を回って、
玄奘が旅の決断をするに至った「ナーランダ」へ辿り着く。
玄奘がなぜ困難な旅を越えることができたのか
ナーランダでのエピソードは次回#86解説する。
ここでは、「なぜ玄奘が困難な旅を乗り越えることができたのか」というところに注目し、玄奘から学ぶ思考などの特徴を見ていきたい。
✔味方を増やす外交力
まずはじめに、「説得する力がやたらと強い」
つまり、外交的な能力が高く、自分にスポンサーをつけさせる力がとても高いということ。
旅の初期、監視塔を説得で越えたり、麹文泰のエピソードがわかり安いのではないだろうか。
その他、2年間滞在してるカシミールでも見る事ができる、
具体的には、下記の通り
- 玄奘の2年間の滞在費はカシミールの国が払っている。
- 玄奘が経典を持ち帰るために必要な写し(写経)する人もカシミールが出してくれている。
しかし、冷静に考えてカシミール国には経典を出してもメリットが無い。
玄奘はスポンサー(味方)を付ける重要性を強く理解している。
つまり彼が、困難な旅を乗り越えられた1つのポイントは「行く先々でスポンサー(自分の味方)に付ける能力が高い」
では、なぜそれができたかというと
- おそらく「無我だったから」、自分の為にやっていないことが明白に分った伝わったのだと思う。(※ガンディーに近い)
- ガンディー程高潔ではなかったかもしれないが、王様が寄付したくなるような人格や知識、外交力を持っていた。
- 難解な哲学を理解した上で、分かりやすく伝える能力があり、言っていることが立派だったのかもしれない。
✔情報収集と言語学習
2つめのポイントが「情報収集する力」とその礎となる「言語の勉強」
これが、玄奘が旅を成功させた要因として機能している。
具体的には、下記の通り
- 色んな人にインタビューしている。
- 行く先々で、その国に行く直前にどういう国か、どういう状況か、行く前からすごく情報を集めている。
- 行ったあとも調べてから次へ出発する。というのを繰り返している。
上記の「事前に調べる」ということの礎になっているのが「言語力」であり、言語を勉強している点が旅を成功させた要因として機能している。
玄奘が旅を決断した日から1年間、おそらくここまで見越して言語が必要であると思って勉強していたのではないだろうか。
✔攻守の思考バランスと切り替え
玄奘が更に凄い点があり「攻守のスイッチング、思考のバランス」
もし玄奘が、既に上記で述べているような「周到に準備をするタイプ」であれば、そもそも無謀な旅をしていないはずです。
つまり、本当にただの「慎重派タイプ」だったならば、そもそも旅をしない。
要は、人格の特質的に相容れない【冒険(攻め)】×【慎重(守)】が玄奘は成立してしまっているわけです。
具体的には、旅に出る。砂漠や氷山で引き返さない。など、玄奘は所々で命の危険を侵しており、絶妙なバランスを取っている。
例えば、会社でも同じ。
冒険し過ぎるとただのバカだし。慎重過ぎると中々成長できない。
- 命をかけるとことはかける
- でも、命かけるから何でもいいわけではない。調べられる所はちゃんと全部調べる。
- とはいえ時間をかけ過ぎることもできないので次へ行く
上記の通り、攻守の思考がちゃんと切り替わっている。
このバランス感覚が玄奘は優れているわけです。
✔余談
【もし、玄奘が現代にいたら】
玄奘は、唯識論というロジックの塊のようなモノを理解しているような人物であり、情熱だけの人ではない。
感情で人を感化するだけでなく、その気になれば全部理詰めで説明することもできたのではないだろうか。
実際に王様を説得しているなどビジネスセンスも高かったと思われる。
現代であればベンチャーキャピタルからお金を貰うなど、資金調達をさせたら凄まじかったのかもしれない。
【もし、お坊さんでなければ】
もし彼がお坊さんになっていなければ、将軍か王様になっていただろう。
攻守のバランスが優れているので、戦争でも同じことが言える。判断し、決断する力が必要。
ナポレオンなどもこうした能力が高かったが、玄奘も持っている。
✔もちろん弱い側面もあったよ
ここまで見て、ハイスペック過ぎる玄奘
- 論理的(ロジック)が強い
- 情熱(熱量)も高く
- 身体も強くてイケメン
- ストイック
- 攻守のバランスに優れ、判断し決断できる
当然、「弱み」もあっただろうけれど、この人はそれが日記など自分の言葉では残っていない。
しかし、「大唐西域記」の中で、この人がバカにしている人たちがいる。
【結論】玄奘はヒンドゥー教徒など他宗教をバカにしており、寛容性のようなものが余り無かった。
つまり、玄奘は仏教を極めたいと思っている。
仏教に命をかけることが出来ている反動で、他の宗教を認められない思いや気持があったわけです。
しかし、これすらも逆説的に言えば
儒教など他宗教に寛容だった兄は立派だが、旅には出られていない。
玄奘は他を捨てたから仏教に1点突破で突き出ることができた。という側面もあるわけです。
#86 三蔵法師・玄奘ー経典を乗せた船がまさかの転覆!?波瀾万丈の西遊記最終章(約20分)
- インドの最高峰の仏教大学「ナーランダ寺院」に入学した玄奘は5年間学び36歳。数千の僧の中でトップ10に入る。
- 玄奘の時代のインドでは仏教が衰退ぎみの状態で、ヒンデュー教などの異教が盛んになってきているような状態だった。
- 自分の知識欲求が満たされた玄奘は、自分が学び発見した真理(正しい仏法)を母国へ伝えるという公的な使命感から帰国を決意したと思われる
- 玄奘の17年間に及ぶ壮大な旅が終わり44歳で帰国。その後20年間の翻訳人生が始る。
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ついに玄奘の目的地ナーランダ大学へ到着し、帰国を決意するエピソード#になります。
当時インドの最高峰で学び、目的を達成した玄奘。己の知識欲を満たした彼が次はどこを目指すのか注目です。
当時インド最高峰の仏教大学「ナーランダ寺院」
ついに、玄奘が旅を決断し目指した地「ナーランダ寺院」に辿り着きます。
- 当時インドで最大の仏教大学
- 仏僧が数千人いて、一流の人が集まって議論を重ねている。
- 唯識論レベルの議論が出来ないと相手にされない。シカトされるような文化。
上記の通り、一流の集まる環境。
ここで玄奘は頭角を現し、数千人の中からトップ10に入る。
(※順位があるわけではない。四天王の10人バージョンのようなモノに選ばれる)
言語があまりネイティブではない外国人で選ばれている玄奥は、やはり優秀だったのだろうことが分かる。
上記の通り、ナーランダ寺院で5年間学んだ玄奘は36歳になり、ここで帰国するか迷うわけです。
出発してから8年くらい経ってるし、だいぶ学んだな。そろそろ帰ろうかな。どうしよう?
いやっ、せっかくここまできたんだ、帰国する前にインド全部回ろう。
学んだけれど、もっと仏典を持ち帰りたいよね。
上記の通り、ここからまたインドの旅(仏典を探索する)という旅がまた始る。
結局、彼はどこまで行っても学びたいわけです。
【結果】ナーランダにまた戻るのが39歳。旅の道中で立ち寄った地で1、2年滞在したりしながら、4年間かけてグルグル巡る。
仏教の衰退、ヒンズー教のライジング
もともと玄奘は「仏教の本拠地であるインドは聖地で、仏教が栄えているのだろう」と思っていた。
しかし、実際に行ってみるとそうでも無かった。
具体的には、下記の取り
- 仏教徒はたくさんいるし、ナーランダ寺院(大学)のような所はある
- しかし、仏教は東アジアの方へ移り衰退ぎみの状態。この時点では異教徒が多い。
色々な異教徒が苦行している様子をみて、玄奘が抱いたのは「軽蔑の心」だった。
具体的には、下記の通り。
- 修行の一環で服を着ない(全裸の人たち)
- だんだん「所有しない」という概念になっていく。
【ヒンドゥー教】
- ヒンドゥー教は今でもある
- 身体に灰を塗る。(※白く塗られている様子は、ググれば出てくる)
【カーパイカ】
- 苦行の1つで、タブーを犯し続ける
- 墓地で生活、風呂に入らず汚れる、肉を食べる、カーストの低い女性とセックスする…など
上記通り、玄奘が軽蔑しているような記述があり「軽蔑の心」を抱いていた。
お前たちの苦行には「理論(ロジック)が無い!」
まずはロジックを突き詰めて、その先に実践として苦行してみるならまだ分かるけれど、
ロジックが無いのに苦行しても意味ないでしょ。
✔仏教の衰退、ヒンドゥー教ライジングの経緯(背景)を解説
4世紀頃にはインドでは仏教が衰えており、ヒンドゥー教が盛んになっていた。
- 全宗教を少しつつ吸収して大きくなっていった宗教(多神教としては自然な流れなのかもしれない)
- ただ飲み込んでいっているだけなので、仏教などに対しても、破壊、禁止、迫害をしてはいない
- ヒンズー教は、「バラモン教」というインド土着の宗教から生まれている。
上記のヒンズー教が盛んになっていく経緯について、以下で簡単に表にまとめたので確認しておきましょう。
ポイント | 出来事など |
バラモン教 | インド土着のもともとあった宗教 カーストが決まっていて、生け贄げたりしている。 バラモンの世界では神聖な「牛」 |
バラモン教が強くなる | 農業をしている人たちは牛を使って作物を育てている バラモン教が強くなってくると、そこの偉いお坊さんが牛を生け贄に捧げてしまう 農家たちは自分たちの商売があるので困ってしまう |
仏教とジャイナ教が生まれてくる | 上記が1つの要因となり仏教やジャイナ教が生まれてくる |
バラモン教の焦りがヒンズー教に繋がる | 仏教とジャイナ教が力を付けてきたことを受けて、バラモン教が民衆にすり寄ろうと考える。 民衆に親しみやすいような宗教になることを目指して、色々な地域の信仰を吸収する流れで、今のヒンズー教に繋がっていく |
上記がヒンズー教が盛り上がっていく経緯であり、そのタイミングが玄奘が生きていた時。
つまり、1度落ちて、また上がってきているようなタイミング。
帰路でのトラブル、焦りつつも冷静に対処
✔軽蔑しているわりに、占いで帰国を決めた玄奘
この時、玄奘はまだ帰るかどうか迷っていた。
そこから「帰る」と決めた理由はまさかの「ジャイナ教徒の占い」だった。
ジャイナ教徒のよく当る人による占い結果「ハルシャ王とクマーラ王の庇護のもと、必ず帰国できるだろう」
よしっ、帰ろう!
上記の通り、理由は分からないが他教徒を軽蔑しているわりに、帰国を占いで決めている。
もしかすると下記の様な思いがあったのかもしれない
来る時の旅は最悪自分が死ぬだけだった。
しかし、帰りは経典を持ち帰らないといけないから、もし死んだら悔しいなぁ。
自分は理解できたし後は広めたい。ここまでして持って帰れないのはちょっとなぁ。
占いで行けるとなっているし、行っとくか。
ついに、帰国のとにつく玄奘。
この時、馬車22台分というおびただしい量の経典を持ち帰ります。(※当然、荷物が多すぎて来る時よりも旅は大変)
ちなみに、帰国ルートでは荷物が多いので船で帰る手段があり
船は船でリスクがあるが陸ルートよりマシなんじゃないか説がある。
しかし、玄奘は陸ルートで帰国しています。
理由は、高昌国の麹文泰との約束を守るためです。
(※高昌国という国は滅び、麹文泰も亡くなっていたので会えなかった)
✔経典の1部を失いつつも、落ち着いて対応
陸路から、途中インダス川を渡る。
この時、船が転覆して経典の1部を失います。
せっかく集めた経典が無くなって、玄奘たちもかなり焦ったと思います。
しかし、慌てることもなくすぐにどうリカバリー出来るか考えます。
【結果】1度集めているモノので、原本がどこにあるかは既に分っている。使者を派遣しもう1度写して持ち帰らせて対応した。
✔そもそも、なぜ玄奘は帰っているのか
玄奘が帰国するまでは、上記の通り。
しれっと帰国している玄奘ですが、ここである疑問が残ります。
Qなぜ玄奘は帰国しているのか?
- 玄奘が出国した時の事を思い出して欲しい。彼は国の法律を犯している。つまり犯罪者なんです。普通に考えたら帰れないし、国も玄奘を受け入れ難いわけです。
「別に帰らなくても良かったのではないか?」
- 自分の知識欲を満たすだけであれば、帰国する必要は無い。ナーランダ大学で勉強して最期にしてもおかしくないわけです。
記録が残っているわけではないが、「自分が発見した真理を中国の人に正確に伝えたくなったのだろう」
中国にいる時は半端だった。実際に自分は真理を求めてインドまで来て、勉強させてもらって相当深まったぞ。
中国の人はまだ知らないままだ。これだけ深まった知識を人に披露して伝えないともったいない。
玄奘44歳の帰国
上記で述べた通り、玄奘が帰国するには「王様の許しが必要になる」
この時、唐では太宗という人の時代になっていたので、玄奘はこの唐の太宗に上奏文を書く。
国禁を侵して密かに天竺に来ています。しかし経典を持ち帰ることが出来ません。
ただ、とにかく皇帝に挨拶がしたいです。まずは挨拶がしたいのでとりあえず使者を送りますね
上記の通り、玄奘は手紙を書く。
これが何を意味しているかというと、下記の通り
太宗は貞観の治を実現した人。中国史上有数の名君と言われている。
玄奘はこの人が西へ勢力を延そうとしていることを察知していた。
それに対して、玄奘は西のことをかなり知っているので、情報交換を想定してジャブを打っているわけです。
自分の情報を交渉材料に、皇帝(太宗)は僕の持つ西の情報が欲しいでしょ?それらを提供するから許して下さいね。
上記のような含みを持たせているわけです。
本来、往復に4ヶ月の道乗りを7ヶ月かけて使者が返事を持って帰る。
理由としては、(太宗)が(高句麗)(今の朝鮮)の所を攻めるのに忙しくて見る時間が無かったからと言われている。
とはいえ、さすがの名君だけあって「会うと即決」しており、
これにより玄奘の帰国はかなり楽なものとなった。
- 法律で追われない
- 皇帝に会う目的で帰られる(皇帝が言うなら通って下さい)
- 皇帝のセキュリティレベルを全部使える(必要なモノがあれば言ってください)
上記のような感じで、玄奘は44歳で帰国する。
第2章、20年間の翻訳人生編
玄奘は20代後半~40代半ばまで(17年間)旅に費やした玄奘は44歳で帰国し、(太宗)という名君に会う。
(太宗)は名君と呼ばれるだけあって見るめがあり、ここで玄奘が尋常ではない人物だとわかる。
玄奘は相当優秀だぞ
お坊さんを辞めて、国政に参加してくれ、ぜひ手伝って欲しい。
NO!断わる。嫌です。
翻訳するために、原典を持ち帰っている。
【結果】玄奘は太宗を上手く立てながら、失礼の無いように上手く断りながら、経典の翻訳チームを作らせることに成功する。(国家予算を付けさせる)
実際どういう会話がされたかは分からないが、凄すぎる。
つまり、全くオファーが違う「相手はあなたを雇いたいです」という話だったのに、最期は自分のスポンサーにさせているわけです。
具体的には下記の通り。
- 太宗の初期はまだ仏教より道教を中心としていた。
- 太宗からしたら仏教をやらない。道教で行こう。という感じだったはず。これを玄奘は上手く説得している。
- 玄奘がしようとしている翻訳事業がどれだけ太宗の国にとって大事なモノなのかという価値をロジカルに詰めていった。
- 玄奘は仏教だけでなく道教についても知っているので、仏教の価値を比較してしゃべることも出来る。(ナーランダ大学でトップ10に入りディベート出来るレベル)
上記の通り、太宗を味方(スポンサー)に付けるという凄いことをやってのけた玄奘。
この時の、交換条件として「大唐西域記」が出てくる。
翻訳家を付ける代りに、「大唐西域記」を書きなさい。
つまり、「大唐西域記」は玄奘が書きたくて書いたわけでは無いということ。
軍事機密情報は一般公開できないので、それを削った一般公開版を「大唐西域記」として発行している。
そうでないとつじつまが合わないような箇所もあるそうです。
✔20年間のストイックな翻訳人生が始る
民衆からは「えらいお坊さんがとてもありがたいお経をもって帰ってきて下さった。民衆ももっと救われるんじゃないか」という感じで凄く歓迎されながら帰国した玄奘。
彼はここから先、またストイックな人生に突入して行きます。
具体的には、下記の通り、
- 玄奘は中国の国中から優秀なお坊さんを集めて、プロジェクトチームを組んでひたすら翻訳する。
- これは彼が亡くなるまで20年間続き、17年間の旅よりも長い。
#87 人生と旅と勉強だ!三蔵法師に学ぶ人生哲学(約23分)
- 唐へ帰国した玄奘は、皇帝の協力を得て周囲を巻き込み経典翻訳の国家事業を始め、亡くなるまで続けた。
- 日本から遣唐使として行った僧の道昭は玄奘の弟子だった。
- 道昭が日本にもたらした法相宗は藤原家に保護され、やがて隆盛を極めた(※元興寺は道昭が最初に伝教したお寺、興福寺と薬師寺は法相宗の有力なお寺。道昭がこれらの寺院を創建したわけではない)
- 玄奘の生き様は「学ぶ」とは何かを教えてくれた。また「ビジネス、人付き合い、生きるとは」様々な視点から見ることが出来てそれぞれの側面から「学ぶ」ことができる。
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17年に及ぶ壮大な旅からついに帰国し玄奘、最期の翻訳人生についてのエピソード#になります。
経典翻訳の国家事業を始め、亡くなるまで続けた
唐へ帰国してから玄奘は、皇帝の協力と資金を得た状態で大翻訳センターを作り、チームでプロジェクトをどんどん回していくという人生に突入していきます。
具体的には、下記の通り
- 持ち帰ったサンスクリット語の原本を、チームを組んで翻訳していく
- 玄奘のメモを元に「大唐西域記」を弁機という優秀な僧に書いて貰う。(※厳密には玄奘が書いていないので「監修」という感じ)
弁機はとても優秀だったようで、「大唐西域記」を1年で作っている。
✔ストイックな玄奘の翻訳生活
上記の通り、20年間でどれくらい翻訳したかというと「1335巻分」と言われています。
この時代には紙があるので、1巻というのがどれくらい分からないが、1335冊分くらいだったと考えると物凄い量であったことがイメージできると思う。
翻訳は23人のチームで行われ、役割分担もしっかりされていた。
原本を玄奘が口頭で話して訳す。
この時、ちゃんと知識あるお坊さんたちを側に置いて壁打ちをする。(「私はこう訳したけど、どう思う?」)
それで決まったモノをメモする人がいて、最終的にそれを聖書するチームもいる。
上記の通り、1つ1つに時間がかかり、作業だけではなく唯識論の哲学を訳すので大変。
翻訳できた1335巻でさえ、まだ1割なんだそうです。
つまり、持ち帰った経典の内の9割は訳さないまま亡くなってしまった。
そして、それだけ凄い量を持ち帰っていたということも分かる。
玄奘は63歳で亡くなっているが、その直前まで生死を彷徨いながら訳している。
以下に、玄奘のストイック過ぎる生活を簡単に表にまとめたので確認しましょう。
時間 | 出来事など |
朝4時 | 起床 一日の予定を確認し、「今日はここまで訳す」というのを経典に印しを付けて、皆が来たらバーっと翻訳していく 玄奘は翻訳だけをしているわけではないので忙しい |
日中 | 皇帝のお気に入りなので呼び出されて話をしたり 役職についている公務員なので、若いお坊さんたちに指示を出したり対応(「これどうしたら良いですか?・明日いいですか?) お寺の経営など色々な所に意志決定している。 |
夜12時 | 就寝 |
「持病持ち」で上記をこなしている | 旅で無理をしているので持病持ちになっている 今でいう何か分からないが「冷病」という持病 【症状】心臓発作でしばしば倒れ、悪寒と高熱が繰り返される |
55歳 | 1度しにかけ、生死の境をさまよう |
63歳 | 1335巻分を翻訳し、亡くなる。 |
「大唐西域記」を書いた弁機のスキャンダル
玄奘の翻訳生活は20年も続くので、その間に色々なスキャンダルが起きたりもしている。
例えば、下記の通り
「大唐西域記」を書いた弁機が皇帝の娘と浮気した。
皇帝の娘は既に結婚済み(人妻)だった。そして弁機との浮気が皇帝に見つかり、もちろん皇帝はガチギレする。
俺の娘と浮気しやがって!
弁機は処刑!
上記の通り、弁機は優秀だったが、ここで亡くなります。
この件について、玄奘と皇帝との間で何を話したかは残っておらず、色々な説がある。
- 皇帝にはめられて殺されたのではないか説
- 弁機がそんなことをするはずが無い説
- 浮気は実際にされてた。本来であれば皇帝は玄奘にまで責任を追求していてもおかしくない。しかし玄奘にまでは及ぼさないくらい玄奘に気を使ったんじゃないか説
- 「大唐西域記」を書いており玄奘以外で軍事機密を知っているので口封じ(証拠隠滅)のため説
上記の通り、色々あって理由は謎です。
そうこうしている内に、
太宗が亡くなり⇒高宗という人の時代になり⇒その後は、中国史上唯一の女帝で有名な「則天武后」がでてくる。
上記の様な時代の流れの中で、玄奘は63歳になり持病を繰り返しながら亡くなっていくという人生。
そして、今でも彼は「西遊記」で三蔵法師として僕たちに覚え親しまれている。
玄奘の弟子、道昭
ちなみに日本には三蔵法師の骨がある。(※600年に生きていた人なので、実際に本物かどうかは不明)
三蔵法師の弟子の1人に日本人がおり、名を道昭と言う。
彼は、日本から遣唐使として行った僧で、実際に三蔵法師の元で修行している。
玄奘と同じ部屋で寝泊まりしているぐらい可愛いがられている記録が残っている。
✔奈良の「元興寺・興福寺」
道昭というお坊さんが日本に帰国してから、今に残っているお寺が奈良にある。
- 元興寺♦元興寺のホームページ♦
- 興福寺♦興福寺のホームページ♦
- 薬師寺♦薬師寺のホームページ♦
ちなみに、薬師寺には三蔵法師の建物があり分けて貰った三蔵法師の骨があるそうです。
骨の公開などについては不明ですが、毎年5月5日に玄奘三蔵会大祭を厳修しているそうです。
気になる方はHPなどでご確認下さい。
エンディング
玄奘の人生から僕たちが学ぶことがたくさんある。
1つは「知的探求心の追求を邪魔できるものは無い」ということ。
これは、「言い訳」を上手く使って何かを辞めてしまっている人たちにとって勇気が貰えるようなことかもしれない。
具体的には、下記の通り
玄奘は、自分がやりたいことに対する阻害要因になるモノを全て蹴散らし乗り越えている。
- 早期に両親を亡くし貧乏になる
- 国が乱れる
- テキストが揃っていない
- 法律で禁じられている
- 砂漠、氷山など自然環境
- 外国
「今、戦争中だし」
「法律でダメって言われてるし」
「砂漠はヤバイでしょ」
「テキスト無いし」
「外国語しゃべれないし」
正直、言い訳したくなる人情が僕にはある。
けれど、玄奘を知ってしまうと「もう、関係無いな」と思える。
玄奘が「言い訳」しようと思えばいくらでもできたと思う。
でも関係ない。全部はねのけている。
そこに対して悩まず最適解を探してどんどん進む姿に勇気を貰ったし、心のメンターとして参考にしたい。
✔希少価値の作り方、2つのスキルの掛け合わせ
玄奘は性質の異なる2つのスキル(能力)を持っていた。
- 身体が丈夫でイケメン(フィジカル)
- 哲学ができる(頭脳)
上記はどちらも「才能型じゃないか」と指摘されるとそうかもしれないが、注目すべきはそこじゃ無い。
【結論】2つのスキルを掛け合わせることが大切であり、そこに希少価値が生まれやすい。
具体的には、下記の通り。
【唯識論を理解できる頭脳。哲学ができる】
たくさんいるはず。実際に旅先ナンダーラ寺院などには集まるほど居ました。
【砂漠や氷山を越えられる】
これもいるはず。「イゴウ」という国には漢民族が3人いたし、人の往来がある以上は越えれる人がいるはず。
上記の通り、1つ1つは玄樹の他にも出来る人たちがたくさんいるわけです。
しかし、2つを出来る人がいなかった。
【唯識論を理解できる頭脳。哲学ができる】×【砂漠や氷山を越えられる】
つまり、2つの出来るが掛け合わさっているから希少価値が出るし、価値を発揮する。
これは、現代でもとてもたくさんあると思う。
上記の話だけでは
- 「そもそも、2つもスキルがある時点で希少価値があるんじゃね。」
- 「1つのスキルを持つだけでも大変なのに、複数なんて」
と思われる方がいるかもしれない。
「スキル」と一言で表現しているが、それは必ずしもポジティブなモノばかりではないのかもしれない。
例えば、下記。
- 弱みだと思っている人もいるかもしれないが、都会から移住を検討している人たちが居たりする
- 僕が学生時に参加した地域協創推進活動で、地域外の人から教えて貰ったことの中には魅力がたくさんあった。
- 「都会のビル群や照明が無い(少ない)田舎では夜空の星が肉眼で綺麗に見える」など
自分たちが当り前に出来ていることが、実は当り前ではないということがある。
つまり、自分のスキルに気付いていない人はたくさんいるんだよというお話。
そして、その2つのスキルを掛け合わせる事で希少価値がでる。
数学的に解説するならば、下記の通り。
- 例えば、あなたが会社の営業マンならば100人に1人の人材だということ。
(人口1000億とするならば、あなたは以外に10億人は同程度の能力をもっている) - では、経理ができる営業マンならどうだろうか「100×100人に1人の人材」
(人口1000億の中に同程度の能力をもつ人材は「1万人だ」) - もし、あなたが趣味で音楽をしていようものなら「100×100×100人に1人の人材」
(人口1000億の中には「100人しかいない」
つまり、3つのスキルを掛け合わせるだけで文字通り100人に1人の人物にあなたはなれるわけです。
✔人にお願いする力「助けてもらう」
玄奘の旅を見ると、1人で旅をしているけれど、結局めちゃくちゃ助けられている。
彼には才能と体力があり超絶ハイスペックだったが、色々な人に助けられているし1人では絶対に目的を達成できていない。
下記の通り、持ちつ持たれつ、それぞれの役割を演じて助け合っている。
- 「玄奘」は悟りを開けるが、何もない。
- 「王様」は悟りを開けないが、出資できる。
Qなぜ、助けて貰えたの?
Aまずは強い想いがあって、それをロジックと熱量で伝えたらこそ協力を得られた。
人に助けて貰うということは、人にこうして欲しいとお願いしないと助けてくれないはず。
(※最期に作った翻訳センターやチームについて「翻訳センター作りたいから人を下さい」と言わないとそもそも始らない)
玄奘を例に具体的には、下記の通り。
- 「こいつならやって欲しい」と思わせ続けてその連続で成功させている。
- 私利私欲では動いていない。「自分が金持ちになりたい」とかロジックで説明されても誰の心も動いていないはず。
- 皆から好かれている傾向がある
- おそらく「自分は勉強ができる。あなたより頭が良い」など、自慢したり謙遜し過ぎたりしてマウントを取るようなことがなかったのだろう
上記に加えて、お願いするのも上手かったはず。
プレゼンスキルが高く、お願いに答えてくれる相手のニーズに合わせて価値を解けた。
「あなたの利益、メリットがあるんですよ」
そして、そのプレゼンスキルを出すための熱量と志があったのだろう。
✔知識の価値
僕たちは玄奘など、過去の学者たちによる「知の集積」をありがたく頂いている。
つまり、玄奘がこれだけ大変な旅をして新しい知識を中国に持ち帰り、それが日本に伝わってきている。
仏教徒であっても無くても関係なく、何かしらの影響とその恩恵を受けているということ。
知識が溢れている現代では、「知識の価値」というモノを感じづらいが、本来は命をかける価値があったということ。
つまり、インターネットなど知識にアクセスしやすくなり便利になった一方で、手に入れ安くなり「知識の価値」が相対的に下がったように感じてしまう。
上記の通り、知識自体は手に入れ安くなった。
玄奘と比較しても、僕たちの方が知識に触れる量も範囲も広く勉強しているはず。
しかし、学びのレベルは玄奘の方が高いのかもしれない。
具体的には、下記の通り
学校や教育など、どれだけ学習の機会を与えられるかも重要であるが、同時にそれを受け取る側の姿勢も重要になってくる。
つまり、学ぶ側の姿勢がハングリーかどうかで、得られる量が変わる。
例えば、玄奘のように「ハングリー状態で学んでいる状態」と、僕たちのように「検索できるよ」「何でも教えてあげるよ」という状態で学ぶのでは得られる量というかレベルが違う。
仮に唯識論を僕たちが頭で理解したとしても、玄奘は実践までしている。
玄奘について「西遊記」のイメージが強かったひとも、知れば知るほど「知識の価値」「本当の勉強とは何か」を考えるきっかけになったのではないでしょうか。
総括
玄奘の生き様から学ぶことは多く、彼はどの視点(角度)から見るかによって変ってくる多様な側面をもっている。
- ビジネス
- 人との付き合いかた
- 生き方
- 知識の価値、学び
気づきや学びについて、具体的には下記の通り1例を示した。
- 2つのスキルを掛け合わせることで生まれる希少価値
- どれだけ優れたスキルがあっても、助けて貰わなければ目的への到達は難しい
- 助けて貰うにはお願いしないと始らない。「まずは想いがあり」それを伝える手段としてプレゼンスキルやロジックなど色々なテクニックがある。
- 誰しも言い訳したくなる人情はあるが、自分がやりたいことに対する阻害要因など実は関係ない。
- 知識の価値を見直しハングリー精神を持って学ぶ姿勢があれば、同じ学習をしたとしても得られる学びの質や量は増える。
上記の通り、
「言い訳しがちな自分」「スキル不足を感じて自信がない」など、具体例を示すことでイメージしやすかったと思う。
ここで得た学びが「人生を豊かにする・考え・変る」きっかけになれは嬉しい。
「西遊記」のイメージで親しまれているであろう玄奘。
彼について知れば知るほど、その生き様から学ぶことは多く。
これからの人生を考える、豊かにするきっかけになれば幸いです。
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